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マンガとぼくの半世紀⑦「空手バカ一代」

改めて自分のブログを読み返してみると、ぼくが中学校時代の「少年マガジン」は「無用の介」、「巨人の星」、「あしたのジョー」という豪華絢爛たる作品が同時期に連載されていて、まさに黄金時代であり、他の少年雑誌を圧倒していたと思う。
ぼくが高校生になった頃は「無用の介」や「巨人の星」の連載はなくなっていたが、次に現れたのが「空手バカ一代」だった。
いつものように、ウイキペディアによると「空手バカ一代(からてバカいちだい)は、1971年から1977年まで週刊少年マガジンで連載された空手格闘劇画で、極真会館を興した伝説の空手家・大山倍達の伝記という設定のストーリーである。原作:梶原一騎、画:つのだじろう・影丸譲也。」ということなので、ぼくが高校1年から浪人1年をはさんで大学2年まで連載されたことになる。これも長い。
「空手バカ一代」は「少年マガジン」でぼくが熱心に読んだ最後の作品だったと思うが、大学に入ってからも読んでいたのかどうか記憶にない。大学に入ってからはもっぱら「少年チャンピョン」とか「漫画アクション」にシフトしていったからだ。

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ぼくとマンガの半世紀⑥「あしたのジョー」

ウイキペディアによると「『あしたのジョー』 は高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画による日本の漫画作品。ボクシングをテーマにしたスポーツ漫画である講談社の『週刊少年マガジン』に、1968年(昭和43年)1月1日号(発売日は1967年(昭和42年)12月15日)から1973年(昭和48年)5月13日号にかけて連載された。」 とあるから、ぼくが中学1年の終わりくらいから高校3年の初めくらいまで読んでいたわけだ。実に5年半もの間連載されていたこともすごいし、その間力石徹の死を一つの頂点としながらもその後も永らく続いたこともすごいと思う。ぼくのマンガ人生の中でも「あしたのジョー」は白眉の存在だった。
高校生の頃の思い出で印象的だったのは、ぼくの親友が授業をドロップアウトし、パチンコに行っては稼いだ金で少年マガジンを買ってくれ、それをクラスで回し読みしていたことだ。だから「あしたのジョー」は高校の友人たちと共有していた。矢吹丈が最後に燃え尽きた時も友人たちと一緒に見送った。
余談だが、授業をドロップアウトしてしょっちゅうパチンコをしていた親友は東京工業大学に現役で合格し、授業にまじめに出席していたぼくは志望大学に落ちた。もっとも彼は大学の時にマージャンをやりすぎて1年留年したから、社会人になったのはぼくと同じ年だったが(笑)。

あしたのジョー
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マンガとぼくの半世紀⑤「巨人の星」

「巨人の星」はウィキペディアによると(『巨人の星』(通称「左腕編」)は1966年から1971年まで『週刊少年マガジン』に連載され)たとあるから、ぼくが小学校5年生から中学校3年生くらいまで読んでいたのかな?
とにかく「巨人の星」は当時の少年漫画では一世を風靡した。赤塚不二夫の「おそ松くん」の「シェー」もぼくが小学校低学年の時に一世風靡したが、「巨人の星」の「がーん」もそれ以上に流行したと思う。
当時日本は経済成長の絶頂期で「巨人の星」のど根性は時代にもマッチして絶大な人気を博したのだろう。それにしても、主人公の星飛雄馬の親父の星一徹のちゃぶ台返しがなつかしい。

がーん
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ちゃぶ台返し
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マンガとぼくの半世紀④「無用の介」

「無用の介」はウィキペディアによると(少年マガジンに「1967年から1970年まで講談社の『週刊少年マガジン』に連載されていた。)ということだから、「ハリスの旋風」の後ぐらいから読んでいたことになる。
当時はテレビでも時代劇ブームで「眠り狂四郎」とか「三匹の侍」がはやっていたし、映画では「座頭市シリーズ」が人気だったような気がする。ぼくは三匹の侍の橘一之進(加藤剛)が大好きで、おもちゃの刀はいつも逆手にもっていた。
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マンガとぼくの半世紀③「ハリスの旋風」

「ハリスの旋風」は「紫電改のタカ」と同じちばてつやの作品で、ウィキペディアによると(「『ハリスの旋風』(ハリスのかぜ)は、『週刊少年マガジン』1965年16号から1967年11号まで連載されたちばてつやの漫画作)とあるので、「紫電改のタカ」の後、ほどなく連載されたマンガだと思う。
この漫画には思い出があって、ぼくのすぐ上の兄が善通寺一高という高校に自転車で通い始めた頃、ぼくは小学校4年生で、この時初めて自分の自転車で自分の町(満濃町:現まんのう町)以外の町の善通寺市まで行ったのだが、その当時の善通寺市はぼくからするととても都会だった(笑)。その時に兄が連れて行ってくれたのが本屋で、今から思うとたいしたことはないのだが、その時はぼくの田舎の本屋とは比較にならないほどの大きな本屋だった。
その本屋でぼくが兄に買ってもらったのが「少年マガジン」で「ハリスの旋風」の第1回がそれに載っていたように思う。
それ以降、ぼくのたっての希望で「少年マガジン」は小学館の学習雑誌とともに近所の本屋さんから配達してもらったような気がするのだが、この記事を書きながら不思議なのはなぜそれまでぼくは「紫電改のタカ」を読んでいたかということだ。
兄はさすがに高校生にもなってマンガを読みづらくなって、弟のぼくに「少年マガジン」を定期購読するように親に仕向けて、もちろん自分も読んでいたのではないかという気もするのだが、まあそれはどうでもいいか。
それにしても「ハリスの旋風」はぼくが小学生上学年(4年生~6年生)のころに最も好きなマンガだった。

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桜が満開!

僕の住む多摩地区東南部の稲城市も桜が満開になった。たった4日前には雪が降っていたのに!
稲城市の桜の名所は何といっても稲城市役所の裏に流れる三沢側の両岸約1kmにわたって咲き誇るソメイヨシノだ。いつだれが植えたかは知らないが(そのうち調べたいと思うが)見事なもので、有名な目黒川の桜と比べても遜色ないと思う。ただ、見物人は100分の1以下くらいだろうから、こちらの方がゆったり見られる(笑)。
毎年思うのだが、あと何回桜が見られるのだろう。

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マンガとぼくの半世紀②「紫電改のタカ」

ぼくとマンガのファースト・コンタクトは前回書いたように小学館の学習雑誌だったように思うのだが、それよりも早かった可能性もある。このブログはとりあえずぼくの漠然とした記憶の中にあるマンガに関することを書こうとしているだけなので、あるマンガをいつ読んだかというような正確なことは期待しないで欲しい(だれも期待してないとは思うが)。
それはともかく、ぼくがマンガに本格的にのめりこむようになったのは少年マガジンのちばてつやの「紫電改のタカ」だったのは間違いない。
ウイキペディアによると(「紫電改のタカ(しでんかいのタカ)は、ちばてつやの漫画。少年漫画誌『週刊少年マガジン』に1963年(昭和38年)7月から1965年(昭和40年)1月まで連載され、その後も新書/文庫による単行本が出版された)とあるので、ぼくが小学2年生のころから読んでいたことになる。
最終回は小学生の僕でも悲しかった記憶がある。

少年マガジン創刊号(何か覚えているような気が・・・)
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紫電改のタカ
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マンガとぼくの半世紀①

ぼくが、初めてマンガを見たのはたぶん幼稚園(5~6歳)だったような気がする。たしか小学館で「幼稚園」という雑誌を見たのが初めてではないかと思う。その後引き続き小学館の「小学1年生」から始まり「小学6年生」までは購読していたような気がするが、あまりマンガの記憶はない。なんせ学習雑誌だったので、マンガは少なかったのだ(笑)。
それでもたしか小学校2年か3年の頃、花村えい子(?)のマンガでヒロインの少女が買い物の「はんぺん」を野良犬の子犬に与えて継母(?)にひどく叱られるというマンガがあって、「はんぺん」というものを知らなかったぼくはとても印象に残っていた。ところが連れ合いもそのマンガを見ていたということがわかったのだが、やはり「はんぺん」が印象に残っていたらしい。「はんぺん」は幼少に関西で育ったぼくにも連れ合いにも未知の食べ物だったのだ!
もちろん今は「はんぺん」はぼくの好物だ。買い物の「はんぺん」を野良犬の子犬に与えるというのは継母でなくても怒るよな(笑)。

1962年の「小学1年生」表紙(まさにぼくが小学校に入った時!)
小学1年生1962年

立花孝志氏の「森友」の核心をついた話

立花孝志氏が(たぶん森友問題に限っては)アベ応援団になりましたという話を少し前のブログに書いた(立花孝志氏がアベ応援団になっちゃった!)。
森友問題に限って言えば、アベ首相もアッキーも直接の関与はないとぼくも思う。
それはともかく今日、立花孝志氏はタブー(同和問題)に切り込んだ。立派だと思う。
ただ、立花氏は同和とか朝鮮(電通)のさらに上にGHQ(今はCIA)がいることまでは知らないのか、知っていても知らないふりをしているのかはわからない。

森友事件と同和【部落】について


ついでに、時間があればこちらも。

殺されるかも?【森友事件】酒井康生弁護士 私に連絡ください

大学受験にすべった君へ

ぼくも1回失敗してるから気持ちはよくわかります。でも絶対に目標を下げてはいけないし、さらに上を目指すのもいいと思うよ。
次は絶対失敗しないという信念を持って!
ぼくも受験に失敗した当時は「Z会」とか「大学への数学」とかはまるで縁がない世界だと思っていたけど、いざチャレンジしてみたらそれほどたいしたことはないことがわかった。チャレンジあるのみ!

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新入大学生諸君!困難だと思っても好きな道を選べ!

タイトルとは逆に、ぼくは大学に入学した時に困難そうな道(授業)とイージーそうな道(授業)があった時に、イージーそうな道を選んでしまった。でも、イージーな道を選んでも、まあそれなりに生きてはいるから、絶対にイージーな道を選んではいけないということを言う資格はない。だが今から思うと後悔はある。
ぼくは大学に入った時、この先生はすぐ単位をくれるかどうかという仲間内の情報だけで授業を選んでいた。だが、それは大きな間違いだと気づいたのは卒業してからだ。
本当は簡単に単位をくれるかどうかではなく、自分がその授業(特に3年からのゼミ)を好きか嫌いか、有益かどうかで選択すべきで、単位をもらうのが難しそうとか簡単そうとか、その時に人気があったとかなかったとかで選択すると一生後悔することになると思う(ぼくも、それなりに後悔している)。
今年新しく大学に入学される若い人たちにぜひそのことを伝えたかった。

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J.S.バッハ・ミサ曲「ロ短調」は凄い!

ぼくはクラシック音楽には(にも)ほとんど無知だけれど、この曲は本当に凄いと思う。たまたまNHK第一ラジオのアーカイブ「文化講演会」で聞いたピアニストでありバッハ研究者の方(もう消去されているので名前はわからない)が、この曲を聞いてその道を選んだと言うのだ。それで初めてぼくも聞いてみたのだが、「G線上のアリア」とかは聞いたことはあっても、本格的にこのようなバッハの音楽に接したのは初めてだった。
涙が自然に出てきて、ぼくもキリスト教信者になろうかという気がした。もちろん、ならないけど。
2時間近くあるので、ぼくのような暇な人や単純作業をする人以外は1回ですべてを聞くのは難しいかもしれないが、何回かに分けて聞いても素晴らしいと思う。

J.S. バッハ 《ミサ曲 ロ短調》 全曲 マゼール指揮/ベルリン放送響


本当は小澤征爾指揮のサイトウキネンオーケストラの演奏(BACH Messe h-moll BWV 232 Sitou Kinen Orchestra,Seiji Ozawa, 小澤征爾 サイトウキネンOrch.)の方が映像もあるしいいと思うのだが、なぜかユーチューブが貼れないのでそちらは各自検索してほしい。

保育園はそもそも必要なのか

少し過激なタイトルだが、あえて問題提起という意味でそうした。
ぼくが生まれたのは昭和30年(1955年)だが、ぼくは2歳のころから4歳のころまで3年間くらい昼間は近所のおばあさんに預けられていた。ぼくの二人の兄たちもそうだったらしい。というのも当時ぼくの実家はぼくの祖父(すでに亡くなっていた)の残した膨大な借金を返済するのと、祖父の子供たち(ぼくの叔父さん、叔母さん総勢10名くらい?)を祖父の長男のぼくの親父とおふくろが養育するのに大変だったらしい。そういうわけで、ぼくやぼくの兄弟は必要に迫られて近所のおばあさんに預けらていたようだ。ぼく自身の思い出で言うと預かってくれたおばあさんはとてもやさしい人で怒られたという思い出は全くない。しかもおばあさんの娘が学校の先生だったため、いらなくなったわら半紙が大量にあって、絵を描くのが好きだったぼくは好きなだけわら半紙に絵をかけたのだ。今から思っても当時は至福の時間だった。
そこで何が言いたいかというと、今は保育園が不足しているというけれど、老人は余っているのだから保育を普通の老人(やっぱりおばあさんかな?)にお願いすればいいと思うのだ。もちろん、都市部で信頼して保育してくれるおばあさんを見つけることは難しいかもしれないし報酬の問題もある。でも、それはみんなが知恵を出せばなんとかなるような気がする。
お金が目的でなく、子供好きなおばあさんに育ててもらう子供はハッピーなはずだ。

立花孝志氏がアベ応援団になっちゃった!

立花孝志氏の「森友学園問題」の解説はとてもわかりやすいので、ぼくのブログにも紹介した(アベ政権はいつまでもつのか?)のだが、事態は急変し立花孝志氏は安倍総理の応援団になってしまった。そのきっかけは、昨日、立花氏に安倍総理の奥様の昭恵夫人から直接メールが入ったことのようだ。立花氏にもいろいろ事情があるのだろうが、彼が「森友学園問題」のみで安倍総理の応援団になったのか「加計学園問題」も含めて応援団になったのは今のところ不明だ。それにしてもアッキーはパワーがあるなあ。
確かに森友だけを見れば安倍総理も昭恵夫人も直接的関与はないと思われるが、やはり間接的責任というか影響力はあったのだろうと思うし、だから悪人どもに利用されたことは否定できないと思う。
たとえ「森友学園」はセーフだとしても、「加計学園」はどうなのか?何せ総理と加計氏は刎頸の友だったようだし。

安倍総理を応援します。野党支援の皆さんごめんなさい。NHKから国民を守る党 立花孝志


船瀬俊介氏の大変有益な講演

評論家の船瀬俊介氏の主張はとても有益なのだが、一般のマスコミで取り上げられることはほとんどない。
なぜなら真実を主張しているからだ。
船瀬氏も言っているがマスコミは所詮権力者の広報機関なのだ。ネットでマスコミの生い立ちを少し調べれば誰でもわかることなのだが、われわれは子供の頃からマスコミは「社会の木鐸」とか「第3の権力」とかと言われて「正義の味方」と思わされてきたが、実は権力者が作った広報機関なのだ。
このユーチューブ番組は少し長いが、デタラメだらけのNHK大河ドラマ1話分くらいなので、そんな暇があったらぜひ多くの方に見てもらいたいと思う。

5つのセルフ・ヒーリング

アべ政権はいつまでもつのか?

今、巷では森友学園問題一色だが、森友学園問題ではアベ首相もアッキーも直接の関与はないようだ。
しかし、この後出てくる加計学園問題ではおそらく逃げようがないのではないかと思う。
詰将棋の結末を観戦しよう。
それにしてもここのところの立花孝志・葛飾区議会議員の活動はすばらしい。

安倍昭恵さんもご覧になっている立花孝志の動画です【酒井康生弁護士】を国会に呼ぶべし!

教育とは愛情である

なぜ唐突にこのようなタイトルの記事を書きたくなったのかわからないのだが、ぼくの確信として残しておきたかったことは間違いない。
ぼくは幼稚園時代(1年間だけだが)、オードリー・ヘップバーン似のとても美しいK先生に可愛がられていて最高に幸せだった。振り返ってみて、生涯においてもあんなに幸福な時期はなかったのではないかと思う(笑)。なので、たぶん頭脳も幼稚園児の中では明晰だったらしく、小学校に入学した時には新入生代表としてスピーチまでした。
ところが、小学生になったとたんT(東條歌子)先生というデブで醜いババアが担任になり、なぜか徹底的にイジメられた。ぼくの上の二人の兄もこのババアにイジメられたそうなので、当時のわが家に逆恨みでもあったのだろう。
そうなると学校も勉強も全くやる気がなくなり、小学校の低学年で不良になってしまった(実際、気にくわない奴をカッター・ナイフで脅したりしていた)。当時の成績は5段階評価で、ぼくは3が最高で1~2が普通だったような気がする。
ところが小学校3年生になって担任がH(平井)先生に変わったとたん、H先生はなぜかぼくに愛情をかけてくれ、ぼくも期待に応えようと勉強もするし、不良も止めるようになった。小学校を卒業するころにはほとんどの科目で5になったと思う。
後で知ったことだが、H先生はぼくが幼児の時(1~4歳?)に預かってもらっていたお婆さんの娘さんだった。(ぼくはもちろんその当時H先生に会った記憶はない。)
これは極端な例かもしれないが、特に幼稚園・小学校くらいの期間は自分を愛してくれる人から教育してもらうことがとても重要だと思う。
「私たちは一人一人の生徒に愛情を持って教育します」という理念を持った小中高一貫私立学校があれば理想だが難しいのだろうか。

また気功をやってみるか

ぼくは結構好奇心旺盛で、20代の頃は独学でヨガをやったこともあるし、40歳の頃気功教室に半年くらい通ったことがある。
その時の気功の先生は中国人で、結構有名な方だったと思う。動機がなんであったか忘れたが、やはり自分が健康になりたいとか回りの人を健康にしたいと思ったのだろうと思う。
気功を学んでいる当時は手から気が出る感覚を明瞭に意識できたし今だにそれは可能だ。ただ、飽きっぽくてものぐさなぼくの性格が災いして、途中で止めてしまったのだ。
ところが最近はまっている苫米地英人という脳機能学者のユーチューブを見ていたら、苫米地博士も同じような時期かもっと前に気功を初めていて、今や気功師としても遠隔治療ができるほどの達人になっているらしい。
その話を聞いて、ちょっと悔しいのだがもう一度気功をやってみる気になったのだ。半年ほど気功教室に通ったので、練功の方法については学んでいるから後は実践あるのみだ。一口に気功といっても、様々なやり方があるのだが、ぼくがやろうとしているのは「馬歩站木庄(木へんに庄)功」(ばほたんとうこう)という気功で15分くらいで完了するのでお手軽だ。今度は続くかな(笑)。

苫米地博士が語る「気功の科学」 【苫米地英人×長倉顕太】


抗ガン剤で殺される?

ぼくがブログを書いている目的の一つは、ぼくが本当に重要だと考える情報をなるべく多くの人に知って欲しいからだ。
ただ医学についてはもしぼくの発信する情報が間違っていた場合に責任が重大なのと、ぼくの高校時代のクラスメートの約4分の1の10名が医者なので控えてきた。ただ友人の一人が最近がん手術を受けたというので、あえて書いてみようと思う。
ぼくが医学、特にがんについて多くの本やブログで調べたのは、親友が12年前に末期の大腸がんで50歳の若さで亡くなったのがきっかけだった。しかも彼も医者だった。
最初に目にとまったのは「ガンは癌にあらず」というネット上に公開されている論文(ガンは癌にあらず)だった。その論文によると、抗がん剤を止め、春ウコンを摂取すると末期がん患者でも回復するという驚くべき内容だった。一言でいえば春ウコンは免疫力を高める効果があると言うのだ。
次に注目したのは船瀬俊介氏という評論家の本で「抗ガン剤で殺される」「ガン検診は受けてはいけない」という衝撃のタイトルの本だった。船瀬氏によると、抗がん剤は効果がないだけでなく猛毒で有害だというのだ。それらの本の中に「あなたがガンになったら抗ガン剤を使いますか」というアンケート調査を271名の医者にしたところ、270名は使わないという回答だったとか、がん患者が死ぬのはがん治療が原因という驚くべき内容が書かれている。(このあたりの話は後のユーチューブの船瀬氏の講演会にも出てくるので見てほしい)
そういうわけでぼく自身もがん検診を含めて検診は受けないことにしているが、みなさんはご自分で判断してほしい。
しかし、なぜそういうことが起こるのかというと、もちろん医者に悪意があるわけではなく、ぼくの友人の医者もみんな立派な人なのだが、おそらくガンの治療にはマニュアルがあって医者は単にマニュアルにしたがって治療と呼ばれる処置をしているだけなのではないかと思う。ではそのマニュアルは誰が作るのか。もちろん医学界なのだろうが、医学界を裏で支配しているのはビッグ・ファーマと言われる欧米の超大手製薬会社であり、それらの会社の意図がマニュアルに反映されているに違いない。ビッグ・ファーマはもちろんロスチャイルドやロックフェラーの傘下だ。
医療の闇は深いが、すべてがカネで動いているのだろう。

船瀬俊介先生『抗がん剤で殺される?ハラダヨシオも殺された?薬って毒なの?』 ワールドフォーラム2011年8月連携企画


抗ガン剤で殺される


ガン検診は受けてはいけない!?


ガンは治る ガンは治せる


ガンは癌にあらず(書籍)

今度は左足を捻挫した!

ぼくは去年右足を捻挫したことをブログに書いた。(歳は取りたくないものだ
ところが先週左足を捻挫したらしい。らしい、というのはまだ整形外科には行ってないのだけど、今日になってとても痛むのだ。
去年右足を捻挫した時は深夜酔っぱらっていて右足首を右側に(時計方向に)ひねったのが原因だと思っているのだが、今回はゴルフ練習場で2時間ばかり練習したのが原因だと思われる。というのも左足を壁にすることに熱中していたので、左足首に負担がかかりすぎたのだろう。それにしても、そんなことで捻挫するとは思いもよらなかった。
その影響かどうかわからないが昨日のゴルフではなんと後半70を叩いてしまった!昨日はほとんど痛みはなかったのに!
まあ、昨日のことはさっぱり忘れて次回のゴルフに臨みたいと思うが、「魔が差す」というのは現実にあるということを痛感したし、この年になると1日で体調が変わるということも経験した。
まったく年は取りたくないのだが、少しでも遅らせるよう努力するしかない。




詰んでいても投了しない棋士っているの?

昨日、アベ政権は完全に詰んでいると書いたが、プロの棋士で詰んでいても投了しない人はいないと思う。いたら、将棋界から追放されるだろう。まして政治の世界は国民生活と密着しているわけだから、詰んだらさっさと投了しなければ追放だけではすまなくなるはずだ。
今日改めて立花孝志氏のユーチューブで森友疑獄の本質を紹介したい。よくできた解説だと思う。
少し長いが、途中を端折っても見る価値はあると思う。
ぼくが感心したのは、籠池夫婦が拘置所から釈放されないのは、大阪地検特捜部がご夫妻の身の安全を●●から守っているからという立花氏の推理だ。だとすれば窓も煖房もない拘置所でこの冬を過ごしてきたという噂はためにするリークということで、ご夫妻は快適な拘置所ライフを楽しんでいるのかもしれない。
それはともかく、大阪地検特捜部にはちゃんとした仕事をやってほしい。

森友事件は大阪地検が解明してくれる【はずです】

アベ政権は完全に詰んだ!

3月に入って、世界の情勢も、日本の情勢も大きく変わってきた。今のところ良い方向にだ。
朝鮮半島は米朝首脳会談が5月に開催されそうだし、我が国のダース・ベーダー政権もやっと命運が尽きそうだし。
めでたし、めでたし、と言いたいところだが、奴らはしぶといからまだまだ何を仕掛けてくるかわからない。
最後まで気を抜くことなく、奴らの最期を見届けましょう。

王将 村田英雄




3.11の犠牲者に黙とう

2011年3月11日の東日本大震災から今日でちょうど丸7年だ。

地震、津波等で直接的、関節的に亡くなれた方には心からご冥福をお祈りします。
また、未だに避難生活を余儀なくされている方には、なんとか事態が良くなることをお祈りします。
3.11について語るのはとても気が重いのだが、それでも自分の備忘録として7年目の今、自分が思う所を記録しておこうと思う。

■東日本大震災は本当に天災だったのか
  東日本大震災は起こった事実を二つに分けて考えるべきだろう。
 (1)三陸沖で起きた大地震と津波。
 (2)福島第一発電所で起きたメルトダウン事故。
 そして、それぞれの現象について
(3)(1)に関してはマグネチュード8.9の地震を観測した地震波が人口地震と酷似しているという話がある。
  (4)(2)に関しては、当時東電福島第一発電所の維持管理を実施していた会社がイスラエルの会社で、原発事故に関与していたの
  ではないかいう話がある。
(3)、(4)のいずれの話もネットを良く調べてもらえばすぐに出てくる話だ。  
ぼくがどう考えているかといえば、(3)についての人工地震説は5割以上、(4)についてのイスラエルの関与は9割以上の確率で真実ではないかと思う。

■東日本大震災以降の日本国家、政府は正気ではない
  日本人自体はまだまとも過ぎるくらいに我慢しているが、国家も政府も気が狂っているとしか思えない。
  震災直後の「食べて応援」キャンペーンが典型だ。きちんと放射能を計測し従来の基準より低ければ当然出荷していいし、高けれ
  ば出荷してはいけないのは当然で,出荷できなかった分については一義的に東電、次に政府が補償すべきなのだ。
  しかも現在は震災前の10倍も基準値を低くしているのだ。何をか言わんやだ。言いたいことは山ほどあるが、2011年3月11日以
  降、日本国及び日本政府はその前よりもさらに加速してさらに劣化の一途をたどってきたことは確かだ。7年目の東日本大震災を
  機に、その後自公政権が何をしてきたか良く考えて欲しい。(では民主党は当時、適切に対応をしたかといえば、そんなことはな   い。ただ、菅首相が動いたことでメルトダウンしたという話は自民党が作ったデマだと思う。) 

それはともかく、3.11で犠牲になられた方に改めて合掌。

参考:福島原発はスパイに乗っ取られたいたと衝撃の事実を苫米地英人氏が暴露!





 
 





ごきげん!鹿児島③(桜島観光)

生まれてこの方いろいろな観光地を訪れたが、スケールの大きさ、雄大さ、迫力において桜島が一番だと思った。
富士山や浅間山も雄大で美しいがそれは遠くから見た場合であって、桜島はまじかに眼前にそびえ立っているからだ。
いつ噴火するかわからないというスリルもある(笑)。
ところで今回桜島に行くまで、そこに人が大勢住んでいるとは知らなかった。しょっちゅう噴火する山のふもとに人が住んでいることが想像できなかったからだ。桜島の住民のみなさん、すみません。それでも大正3年の大噴火まで1万人以上住んでいた住民は現在4,000人まで減ったそうだ。
もう一つ。桜島は大隅半島と陸つながりなのにどうして島なのかと不思議に思っていたが、なんと大正3年の大噴火の時、桜島から噴き出した溶岩が400mもあった海峡(瀬戸海峡)を埋め尽くして陸続きになったのだ。アンビリーバブル!
そんなことで、桜島を1周する観光バスの旅は冒険と迫力とスリルとに満ちていて、どんなアミューズメント・パークも足元にも及ばない面白さだった。行ったことのない人にはぜひおすすめしたい。
            
  湯野平展望所から山頂を望む        湯野平展望所から鹿児島市内を望む       IMG_0371_convert_20180308134459.jpg  IMG_0374_convert_20180308134559.jpg

     黒神埋没鳥居           島内に多数ある退避壕       
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                 有村溶岩展望所から見た山頂       
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     桜島フェリー           桜島を後にして鹿児島市内へ
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最後に桜島観光のポイントをアドバイスしたい。
我々の観光旅行は当初3月3日が桜島、3月4日が市内観光の予定だったが、3月4日は鹿児島マラソンが開催され観光地はお休み、交通も大幅に規制されることが分かり急遽逆になったのだが、偶然、3日は大雨4日は快晴となって桜島観光を満喫することができた。
なのでとりあえず桜島で宿泊することにして、天気次第で桜島観光と市内観光を入れ替えれば良いと思う。
また桜島で宿泊する場合、我々も宿泊した「国民宿舎 レインボー桜島」が素晴らかったのでおすすめしたい。
昔の国民宿舎のイメージとは全く違ってまるで高級リゾートホテルだ。温泉大浴場も広いし、料理も美味しいし、幹事によれば飲み放題の宴会付き1泊2食で13,000円くらいだったようだ。

「国民宿舎 レインボー桜島」のホームページ(国民宿舎 レインボー桜島)から
レインボー桜島         レインボー桜島2






      


ごきげん!鹿児島②(鹿児島市内観光)

今回の同窓会は3月3日(土)13:30に鹿児島中央駅集合、観光バスで市内観光をしてから桜島に渡り、国民宿舎で1泊、翌日は午前中、観光バスで桜島観光をして昼に鹿児島中央駅に戻り、昼食を食べて解散というスケジュールだった。
今回は鹿児島市内観光編ということで記事を書く。
鹿屋市串良町にある「ビジネスホテル ライラック」で1泊した話は前回書いた。前日は鹿児島空港から高速バスに乗って終点の「東笠之原」で降り、ライラックの経営者のおばちゃんに迎えに来てもらったのだが、この日も同じバス停まで送ってくれ、鹿児島中央駅直行バスに乗った。
バスに乗って1時間もすると垂水港という所に到着したのはいいがなかなか出発しないのでおかしいなと思っていると、ありゃりゃ、なんとフェリーに乗っていくではないか。後で地図を見て納得したが、垂水から錦江湾を回っていくのに比べるとフェリーで渡る方が距離的に圧倒的に近いし早い。しかもフェリーは桜島のすぐ横を通るのでとても景色が良い。期せずして船旅もできてラッキーだった。

   垂水港で乗船を待つ                    垂水港出航
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                      フェリーから見た桜島    IMG_0355_convert_20180307113135.jpg

直行バスは11時前に鹿児島中央駅に到着。
お昼は前日同窓会の仲間が教えてくれたアミュプラザ鹿児島B1にある鹿児島ラーメン店へ。
ところが有名なラーメン店「ざぼんラーメン」と「ラーメン専門こむらさき」が並んでいて、どっちに入るか迷ったが、結局少し安い「ざぼんラーメン」に入ることに。大変美味しいラーメンだったが「ラーメン専門こむらさき」も食べたかったなあ。


「こむらさき」と通路を挟んで「ざぼんラーメン」 「ざぼんラーメン」のラーメン IMG_0357_convert_20180307122644.jpg  IMG_0356_convert_20180307122724.jpg


13:30に同窓会メンバーと無事合流し、鹿児島市内観光へ。「維新ふるさと館」、西郷さんゆかりの「城山」、「仙厳園」を回って桜島フェリーターミナルから宿のある桜島へ。このへんは誰もが行く観光地なので割愛。興味が偏っているかな?

  西郷さんのお墓(右端)     仙厳園(せんがんえん・旧島津藩主別邸)
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ごきげん!鹿児島①(串良平和公園)

前回、ぼくのブログで鹿児島に行く話を書いた(鹿児島で同窓会します)。
今回はそのレポートだが中身が濃いので2~3回に分けて書く。
ぼくの高校時代の同窓会が3月3日(土)、3月4日(日)鹿児島市内(桜島を含む)であったのだが、ぼくはそのついでに前日(3月2日)に母方の叔父が戦死(病死)した串良航空基地跡(串良平和公園)に行き、滑走路跡や地下壕跡を見学した。やはり現地を訪れないとわからない悲しみや苦しみが伝わってきたような気がした。とにかく慰霊塔にお参りして、伯父さんへの義理は果たせて良かった。

               串良平和公園の位置
串良平和公園地図2



   串良平和公園入口     
                         
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                                         串良平和公園の由来
                                                                                          
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      慰霊塔      

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           各部隊ごとの慰霊塔
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        滑走路跡(2本)。今は道路になっている。
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                  地下壕第一通信室
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その日宿泊した「ビジネスホテル ライラック」というところがとてもユニークで良かったので、紹介しておく。
何せ田舎とはいえ、1泊2食付きで5,200円なのだ。部屋はロッジで、一人で宿泊するのには広すぎるくらい。おまけに庭には放し飼いのウサギやニワトリがいてカントリー気分が満喫できる。有名スポーツ選手や子供たちの団体も良く利用しているようで、ぼくが泊った翌日は60名の小学生が泊まるということで、経営者兼支配人のおばちゃんは大忙しだった。こちら方面に旅行する時はぜひ利用してほしい。ただし、お酒は自分で用意していくように。ビールの自動販売機もないし、焼酎も普段はないようだ。ぼくは特別に売ってもらったが(笑)。

      看板                         入口につながれたワン                                                                                                                                                                                                                                    
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     放し飼いのウサギ
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   フロント    コテージ (僕の部屋は軽四の隣)               コテージ内部           
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                     夕食 
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鹿児島で同窓会します

明日から2泊3日で鹿児島に行く。
別に大河ドラマ「西郷どん」とは関係なく、1年前に高校の同窓会の旅行(ぼくたちは「おとなの修学旅行」と称している)で決まっていたからだ。1年前の同総会は鎌倉だったが今年は幹事の奥さんが鹿児島出身だという軽いノリだった。
同窓会自体は土、日だがぼくはこの機会に前日(金曜日)に鹿屋市にある串良航空基地跡地(現在は串良平和公園)を訪れる予定だ。というのも今年94歳になった母の兄がこの地で戦死(病死)したということなので、母に代わって慰霊したいという思いからだ。そのレポートはまた後日書くとして、高校の同窓会について少し触れてみたい。
ぼくは昭和46年に香川県立丸亀高等学校理数科というところに入学した。
当時は理数系、とりわけ医学部が異常に人気があっておそらく全国各地の高校に理数科が設立されていたのだと思う。
丸亀高校の理数科もその流れで何年かの歴史があったのだろうと思うが、地元の中学校から選りすぐりの優秀な生徒が集まっていたようだ。ぼくは別に理数科に興味があったわけではないが、中学校の進路指導教師から「理数科が無理でも普通科には入れるからチャレンジしろ」と言われて受験し、偶然受かったわけだ。
理数科に入ってみるとなるほどみんな秀才ぞろいで、田舎の中学校ではトップだったぼくも最初の試験ではクラスで最下位だった(笑)。それで奮起して勉強にがんばったかというとほとんど成績には頓着せず陸上部の部活動に精を出していた。
それでもさすがに3年生の時の受験の失敗には懲りて1年浪人してやっと念願の大学には入ることができた。
それはともかく、ぼくの同級生が入学した大学は以下のとおり。

国立大医学部…9名
県立大医学部…1名
国立大歯学部…1名
東大…2名
京大…2名
阪大…4名
東工大…2名
名工大…1名
神戸大…2名
慶応大…2名
国立大学(医学部以外)…8名
有名私立大学…5名

そういうわけで、灘高もびっくりという秀才ぞろいのクラスではあったが、今集まると(15人くらいか)、みんな良いおっちゃん、おばちゃんになっている。そういう仲間と年に1回「おとなの修学旅行」を開催しているわけだ。
ぼくは今が当時より楽しい。